私が社寺建築の世界に入ったのは、大学を卒業してすぐ。
子供の頃からモノづくりが好きでしたから、喜んでこの世界に入りました。
基本的に創意工夫をすることが大好きですから、社寺建築はまさにうってつけの世界。仕事が忙しくて休みがなくても苦でもなんでもない。逆にいつも時間が足りないと思っているくらいですから…幸せですね。
我々は、100年も200年も経てきた古い建物を修復したり、また新しくさせてもらったりするわけですが、私自身自ら、床下などに潜り、基礎のところから小屋裏まで全部調べさせて頂きます。
そのとき先人がどういう思いでこれを造ったのか、時代と材料と仕事の様子を肌で感じて、建物と対話するように心がけます。そうすると、その建物が、このご本堂がどこで悲鳴を上げているのか聞こえてくるものです。そこが急所です。
お寺や神社は、なんでもかんでも新しくすれば良いというものではないと思います。
大切なのは、何百年とこの地に残ってきた歴史そのものを、受け継いでいくという意識だと私は考えます。建てられた時代も工法も意匠も立地もすべて違う、ひとつとして同じもののない建物をこれから先、何百年も持たせるために、どこをどうすればいいのか、きちんと調べてきちんと直すこと。
歴史を受け継ぐ担い手となる事が出来るのが、社寺建築の魅力であり、醍醐味ですね。
仕事をする上で何よりも心がけていることは、お客様の目線に立って共に悩み考えること。
例えば、小島が得意とする木造本堂の修復にしても、ただ直すということだけでなく、もっと全体を俯瞰して見ていくということが大切だと思っています。こちらから手をつけた方が二度手間がなく費用も抑えられるとか、次の代で新築を考えたらどうかなど。ご依頼主さま自身の年代、今後のライフサイクルなども密にお話をしながら、運営上のことや将来設計までも一緒になって考え、悩み、さまざまなご提案をさせていただきます。
お客様がこうしたいから、ただその通りにするというのでは、プロの仕事としては30点。
豊富な経験と実績を活かし、熱意を持ってお客様のお考えの先にあるものを考え、提案し、実現していく。
それが、社寺建築専門の小島ができる“本物の仕事”だと考えます。
「昨日よりも今日の仕事が最高の仕事」という気持ちで、向上心を持って日々取り組み続けております。
社寺建築という仕事に携わるなかで、私にとって大きな転機となったのが四国八十八か所の歩き遍路の旅です。
当時の私は自分の未熟さゆえに、仕事でも悩み、躓き、いろんなことがうまくいかなかった時期でした。そんな時、周りの方々からの勧めもあって、お金は一切持たず、1年間をかけてお四国を歩く旅に出たのです。
この旅路では、本当にたくさんの人に出会い、多くを学びました。
八十八ヶ所の霊場以外にも番外の別格本山もすべて巡り、結局、お大師様ゆかりの地を含め、240ヶ所以上を訪ね歩くとともに、お寺や一般民家で、お手伝いや奉公をしながら、色々な所でお世話になりました。
なにしろお金がありませんので、どうしようと悩んでいたところ、お世話になった熊谷寺のご住職様よりこの先は托鉢をして進めば良いとご指導頂き、何とか進む事が出来ました。
又、今でも思い出深い、お世話になったお寺のひとつに、滝行をさせていただいた建治寺というお寺がございます。毎朝3時に起きて、印を切って塩をまいて、真言を唱えながら…。ちょうど2、3月の、雪がだんだんと降る一番寒い時期です。21日間でひと区切りなのですが、ようやく終わって写経をし、ご住職に相談した所、「もう21日間続けなさい」と。まだまだ修行が足りませんでした。
そんなさまざまな経験をするなかで、山陽新聞社の記者の横田さんに出会いました。
その時に「面白そうな奴がおる」と、取材を受けた記事が残っています(下部参照)。
お遍路に出るまでの私は、より大きな御本堂を作りたい、より立派な伽藍を作りたいと、いわば社寺建築の外側の建物の部分ばかりに目が行っていました。しかし、数多くのお寺を巡り、人々の心に触れるにつれ、社寺がそのような造りである意味や、人の生死にとっての役割など、もっと広く深い内面の部分に意識がむけられるようになっていきました。
今でもふと、その修業していた時の気持ちがよみがえる時があります。
当時、お世話になった方々のお顔が浮かんでくることもあります。
「決して自分ひとりで生きているのではないぞ。周りの人々に助けられ、みんなに生かされて生きておることを身を持って感じたことを決して忘れるでないぞ。」と心の中で今でも響きます。
1999年9月の山陽新聞です。